そいつが僕の家にやってきたのは、僕が小学3年生の夏休みのことだった。


















『ぼくとセミの夏』





















「まったく、ミンミンジリジリうるさいねぇ」

そいつが言った。
8月のよく晴れた…と言うより、晴れ過ぎてるくらいのかんかん照りで蒸し暑い日。
そいつは、僕が暑いのに耐えながらも宿題をやってるというのに、そんなことはおかまい無しに横でブツブツ言っていた。

「……あのさぁ、よくそんなこと言えるよね」

そしてついつい、僕もそれにかまってしまう。
僕の家のすぐ近くに小さな公園があって、この時期はそこからセミの鳴き声が迷惑なほど聞こえてくる。
だからそいつの言った台詞は普通なら何の不思議も無い台詞だった。
なんだけど…。

「いい加減飽きないのかね、あんなに大きな声で。ほんと、聞いてるこっちが嫌になるよ」
「自分だってセミのくせに」

そう、そいつはセミなのだ。
僕は人間で、そいつはセミ。

「うるさいものはうるさいんだよ。オマエだってうるさいと思うだろ?」
「そりゃそうだけど」

何故だかわからないけどこのセミは今、僕の部屋に住み着いている。

「キミは頑張ってる仲間に失礼とか、自分も頑張ろうとか思わないの?だいたいキミは何でこんなことしてるのさ」
こんなことしてる、なんて言っても、実際は何もしていないのだけど。

セミは3日前、僕の部屋に突然飛び込んで来た。
そして唐突に「なぁ、ここに住まわせてくれよ。いいだろ?」
と、こっちの返答も待たずに僕のゲームする時に愛用してるクッションの上に勝手に陣取ったのだ。
それ以来、殆どそのクッションの上にいて、時々僕と会話したりスイカを食べたりして過ごしている。

「セミって普通は鳴くものでしょ?僕はキミが鳴いてるところを聞いたことがないよ」
鳴くどころか飛んでるところも殆ど見たことがない。
「やつらは生き急いでるのさ。俺はな、疲れることはしないんだよ」
「呆れた…なんだよそれ、ただのナマケモノじゃん」
僕は宿題の手を止めてセミの隣に寝っ転がった。
正直、さっきから暑さで全然集中できなくてさっぱり進んでいなかった。
集中できないどころか、漫画の中以外では普通やらないような、鉛筆を耳の上に乗せたり鼻の下と上唇の間に挟んでみたりとかしてた。
ナマケモノだなんて人のこと言えないな。セミだけど。

「おいおい、馬鹿にしてもらっちゃ困るぜ。俺はただ怠けたいから鳴かないわけじゃないんだぞ。ちゃーんと考えがあって鳴かないんだ」
「考え?何それ?」

考えなんてあったんだ、意外。

「鳴くのってアレ、結構体力使うんだよ。それこそ寿命を削るくらいの勢いでだ」
「ふーん、そうなんだ。そういえば、あんな小さな体でここまで声が聞こえるくらい大きな声を出してるんだもんね」

僕でも公園から家まで届く声なんてかなり体力使うはずだもの。
セミの小さな体には僕が想像もできないくらいの負担がかかってるんだろう。

「そうなんだよ、そんなこと毎日毎日やってたら、いつまで生きられるかわからないだろ?で、俺は気付いたんだ。鳴かなければもっと長生きできるんじゃないかってな。だから俺は鳴かないんだ!」

えっへんと自慢げに言った。
そうか、それであんまりクッションの上から動かなかったんだ。

「へぇー、凄いじゃん」
「だろ?」
「でもさ、みんな鳴いてるのにキミだけ鳴かないなんていいの?」
カラスの勝手でしょー じゃないけどセミの勝手とかそういう問題でもない気がするし。

「じゃあ聞くけどよ、オマエは何で俺達が鳴くか知ってるか?」
「えー…と、確かオスがメスを呼ぶため…………って、もしかしてキミはメスなの?!」
「ばーか、オスに決まってるだろ!」
「あははは、だよね」

別に決まってはないと思うけど。みんな同じに見えるし。
セミは「はぁ」と少しため息(のようなもの)をついてから難しそうな感じに言った。

「あのな、オスがメスを呼ぶっていうのは自分の子どもを作る為だ…って誰かから教えてもらわなかったか?」
「教わったよ、理科の授業で。“自分の子孫を残すためにメスは強い遺伝子を持ってるオスを選んで卵を産む”だよね」
「んー、イデンシとかよくわからんがそういうことだ。じゃあ何で子どもを残す必要があるか教わったか?そのリカってやつから」
「それは…………教わってないと思う」

よく考えてみればそうだ。
“メスを呼ぶため”“子孫を残すため”までは教えてもらったけど、どうしてそういうことをする必要があるかまでは全くわからなかった。
僕は急に話が難しくなって真剣に考え込んでしまった。

「何でだろう…」
「そこなんだよ」

湿った風が部屋を流れた。
セミは少し間を置いてから語り出した。

「自分の子孫?そんなの残してどうなる。子孫がどーのこーのって言うのは人間の感覚だ。俺達はオマエら人間よりずっと寿命が短い。子どもなんて顔も合わせやしないし、もちろん親だって知らない。生んでくれた親に感謝くらいはしても、子どもなんていてもいなくても俺には全然関係の無い話だ。だがな、俺達…少なくともセミはそういう考え方をしてないんだ」
「…どういうこと?」



「自分が再生できると思ってるのさ」




衝撃の発言だ。

「え…それって“生まれ変わる”ってこと?」
「あぁ、だから子どもっていうのは自分のコピーみたいなものだと思っているのさ。子どもが生まれればまた自分はそれとして生まれ変わって生きられるって信じてるんだ」

だからあんなに必死に鳴いてるように聞こえるんだ。
また自分が自分として生きたいから…。
あれ?でも何でそんなに生きたいんだろう。
僕は生きていることが当たり前になってるけど、そんなに生きるって大事なことなの?
生きるって何?死ぬって何?

頭がこんがらがってきた。

少し整理してみよう。
確かに今、僕は生きているけど……いきなり死ぬことになったらどうだろう。
僕が突然いなくなるってことだよね?
いなくなるって想像もできないけど、でも考えると凄く怖い。
それに、もうお母さんともお父さんとも友達とも会えなくなって、楽しいこともみんななくなっちゃう。
それも嫌だ。
だからこそセミ達は必死に生まれ変わろうとするのかな。

「でもそんなことは有り得ないんだよ」
「どうして…そう思ったの?」

僕はその“生まれ変われる”という考え方を一瞬だけ信じかけていた。
信じたかった。

「俺には親の記憶も無いし、他の生き物は普通に親と子どもが一緒に別の命として暮らしてるんだ、セミだけ生まれ変わったりするのは変だろう?」
「……そうだね」

信じかけて、一瞬で砕け散った。
当たり前だ。
そうでなければここにいる僕は僕じゃなくなってしまう。

「そこで俺の生きる価値って何なのかなって考えたんだ」

僕と同じだ。
同じことをセミは考えたんだ。

「で、俺はその答えを“長く生きること”と出したわけだ。そして“生きてる時間をめいっぱい自分の為に使うこと”が俺の生きる価値だと思ったんだ。自分以外のやつのために寿命を削ってまで頑張る気はないからな。短く太い人生じゃなくて、細くても長い、自分が満足できる生き方をしようってな!ま、他のやつらが太い人生送ってるとは思えないけど」

セミが“人生”なんて言葉を使うのはなんかおかしいけど…でもそれは凄い結論だと思った。
僕は毎日をただなんとなく過ごしていた。
学校に行かなきゃいけないから行って、先生が来るから授業を受けて、お母さんに言われるから宿題をして。
でもそれは僕だけじゃない、きっと僕と同じ年頃の子ども…それどころか、きっと大人でも多くの人がそうだと思う。
でも、きっとセミは僕と出会うもっと前から、自分の生きる道について考えていたんだろう。
セミは“生きる価値”って言った。
それがあると少し毎日が違って見えるに違いない。
あれこれもっと頑張るとか、そういうんじゃなくて、もっといろんなものを、自分の時間を大事にできるんだと思う。
例えそれがセミの出した結論のように“何もしないこと”でも。

「…凄いね、キミは」
「別に凄かねぇよ」
「そして楽して暮らす為に僕んちに転がり込んだと…」
「んー、まぁそれだけじゃないけどな」
「え、じゃあ何?」

セミは「えーっと」とか「そのぉ…」とか、何故か言いづらそうだった。
どうやら言葉を選んでいるようだ。
言いづらそうっていうか、なんかちょっと照れてるようにも見えた。
虫の表情なんてわかんないけど。

「俺は昔、一度オマエに会ってるんだよ………覚えてないか?」
「え?!ほんとに?う〜ん、覚えて……ない」
「いいさいいさ、思い出すほどのことでもないからな」
「え〜、なんか気になるなぁ」

全然覚えてないや、そんなことあったっけ?
特別に虫が好きってわけじゃないから、虫取りとかしばらく行ってないし。
そもそもこの辺りに捕まえるほどの虫もいないし。
僕が頑張って思い出そうとしていると「とにかく!」とセミは声を張り上げて無理やりはぐらかした。

「俺の目標は他の奴らよりうーんと長生きして、世界記録を更新してやることだ!ちゃんとオマエも協力しろよ!」
「アハハ、わかった。期待してるよ」
「きっと5年は余裕だぜ、目指せ10年!」

うん、キミならきっとできる。
きっと世界一長生きしたセミになれるよ。

「ちなみに今、記録は何日目?」
「3日目だ!」

どうやらスタートはうちに来た日だったらしい。

















それから2ヶ月後、セミは死んだ。













夏休みが終わり、僕が登校しはじめてしばらくした11月の朝のことだった。
起きてすぐ、セミにおはようと言おうとして見てみると、セミの体はいつものクッションの上にはなく、床の上に仰向けになって、行儀良く足を揃えて転がっていたのだ。

嘘つき。

5年は余裕だって言ったじゃないか。
鳴かなければ体力使わないって言ったじゃないか。
世界記録を更新するって言ったじゃないか。

不思議と涙は出なかった。
悲しくもなかった。
僕は落ちているセミを拾い上げて、またクッションの真ん中の窪みにそっと乗せて学校へ行った。


その日は授業中も休み時間もずっとやる気が起きなくてぼーっとしていた。
給食の後のお昼休み、友達からのサッカーの誘いを断って図書室に行った。
そしてなんとなく昆虫図鑑を引っ張りだして広げてみた。

そういえば、あいつなんて種類だったんだろうな…。

そう思ってセミのページを開いてみる。
へぇ…あいつってミンミンゼミだったんだ。
鳴かないからわからなかったよ。

そこで僕は初めて自分の勉強不足を知ることになった。
図鑑にはこう書かれていた。


『セミの成虫期の寿命は1〜2週間と短いが、卵・幼虫期を土の中で6〜7年過ごすものもいるので昆虫の中では長寿である』

ミンミンゼミ(セミ科 セミ亜科)
発生:8月初頭〜9月下旬
卵・幼虫:6年〜7年


「なんだ…そうだったのか………ははは」

十分長生きしてるじゃん。
普通のセミより何倍も長く地上にいたんだもの。
それに6〜7年ってハムスターより長生きじゃないか。

そして更に、その下の写真を見て思い出したんだ。



『俺は昔、一度オマエに会ってるんだよ』


そうだ、僕らは会っていた。
3年前に。

―――あれは僕が小学生になる前の5月のこと。
友達が2人、僕の家に遊びに来ていた。
その時は庭で穴を掘ったり石をひっくり返して遊んでたんだ(後で怒られたけど)
友達の1人が白い虫を地面から掘り当てた。
珍しがって友達は2人して触ってたんだけど、僕はそれを可哀想だからと言って地面に埋め直したんだ。
その虫はこの写真のセミの幼虫にそっくりだった。

セミはあの時のことを覚えていたんだ。
恩返し…ってほど何かをしようとしたわけじゃないだろうけど。
でも、あいつはあいつなりに僕に一生懸命に相手をしてくれていたのかもしれない。
そして僕といっしょに少しでも長く、自分の時間を過ごす為に…。

僕はなんだかホッとして笑えてきた。
笑っていたけど目からは涙が溢れ出て来ていた。
あれ…何でかな、今頃出てくるなんておかしいや。
涙はぽろぽろ出て来て止まらない。
これじゃ図鑑が塗れちゃうよ……。





学校が終ってすぐ、僕は走って家に帰った。
そしてセミの墓を庭に作って埋めてあげた。
最後に大きめの石を立てようとしたところで、僕らがお互いに名前で呼んでいなかったことに気が付いた。
名前すら付けてあげていなかったなんてな…。
石になんて書けばいいんだろう。
いや、あいつのことだからもしかしたら自分で決めた名前があったのかもしれないけど。



結局“セミのおはか”って書いた。
僕が覚えていればそれでいいんだ。
世界で1番長生きしたセミがいたことを。
キミと会えたことで、僕の日常が変わったりはしない。
だけどきっと、僕の時間は変わったんだ。

ありがとう。
キミといっしょに過ごせて楽しかったよ。






- おわり -









=あとがき=

暑いのは好きじゃないですが夏という季節が好きです。
そして夏を実感できるセミの鳴き声も好きです。
近すぎるとうるさくて困りますが、雑木林の近くを通りかかった時に聞くのは風情があって「これぞ日本の夏だ!」と思えるのです。
そしてなんだかちょっと切なくなるのです。
夏が終わるのを惜しんで。
特にヒグラシの声は切なくてたまりません。
朝と黄昏れ時にしか鳴かないなんて反則だよおまえ!

この物語はそんなセミと夏に対する思い入れからできました。
そして、小さい頃疑問だったことを主人公の“僕”に考えてもらいました。
我が家では昔から生き物系の番組を父がよく見ていて、その番組内で頻繁に耳にするのが「子孫を残す為に〜」というくだりでした。
私にはそれが凄く疑問だったのです。
何故生き物は子孫を残そうとするのか。
その様子は必死そうにも見えるし、子孫を残す為の行動しかしない生き物もいます。
子孫を残す為に生きて、またその子孫も子孫を残す為に生きる…。
意味がわかりませんでした。
そこまでする価値があることなの?
そんなことして何か意味はあるの?
だって人間には全然そういう感覚はないのだから。
まあ、結局のところ未だによくわかってないんですが。
でもそれを考えること自体が良いことのような気がします。
いつか自分なりの答えが出ればいいですね。

この物語の“ぼく”は現代の平成生まれの子どもで、都会っ子です。
都心に近い地域に住んでいて、親に言われるから塾に行き、とりあえずこの流れで中学受験をしなくちゃいけない雰囲気で、休みの日には友達とテレビゲームをし、おじいちゃん・おばあちゃんは近くに住んでるから田舎っぽいところで遊んだことはなく、近所の人に怒られたことはないような子どもです。
最近はそういう子が多いから“子どもが虫離れしている”なんて言うそうですね。
身近な生命に触れることがなくなったから「人は生き返る」と思ってしまう子がいるのかもしれませんね。
この物語は、そんな今の時代の子ども達に捧げます。

ちなみに、セミは飼育が難しく、あまり詳しいことはわかっていないそうですが、地上に出てからの寿命の1〜2週間というのは飼育した場合の寿命だそうです。
だから野生では1ヶ月生きているセミもいるかもしれないそうです。